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目 次 ]      月刊・お好み書き 1997年4月1日号


「太く短く」。情はどこまでも深く…
悪役・剣晃、30歳で逝く

 大相撲の元小結で東幕下55枚目の剣晃さんが、3月10日、肺出血のため大阪狭山市の近大付属病院で亡くなりました。まだ30歳の若さでした。横綱貴乃花や大関にも堂々張り手を見舞い、土俵を沸かせた剣晃さん。「角界のヒール(悪役)」として有名になってしまったけど、心根は女手一つで育ててくれた母親思いの優しい青年でした。大変僭越ではありますが、ここに思い出を含め、どうぞ素顔の一部を記させて下さい。

【日刊スポーツ新聞社運動部・前大相撲担当=松井清員(きよかず)】



わずか4例の難病

 力士のシンボル大銀杏は、もう結えなかった。多量の痛み止めの影響で、髪の毛は全部抜けていた。それでも体中を激痛が襲い、高熱にうなされ、病院のベッドの上で手に取るものすべてを投げつけていたという。150キロあった体は、もう100キロを切るまでしぼんでいた。そして最期の言葉は、「母ちゃん、もう眠りたい…」。
 3月10日午前11時50分、母知恵子さん(60)と兄隆志さん(33)らに看取られ、剣晃さんは息を引き取った。「汎(はん)血球減少症による肺出血」。白血病の一種で、日本でも剣晃さんを含め過去わずか4例、4000万人に一人という難病だった。テレビ画面から姿が消えて10カ月。どんどん下がった番付は東幕下55枚目にまで落ちていた。
 まだ30歳。会社からの第一報、テレビ報道にも、顔を見るまで信じられなかった。12日、大阪府寝屋川市の「玉泉院」で行われた葬儀。出棺の時、夢であってくれと祈った。だが花と手紙に囲まれた剣晃さんの頬は氷のように冷たく、目は閉じられていた。「きれいなお顔して…」。菊の花を手向けるご婦人たちは、みなそう言ってすすり泣いていた。とても苦しみ抜いて亡くなったとは思えない優しい顔。ただそれだけが、かすかな救いだった。

汎(はん)血球減少症とは 骨髄が侵され、血液中の赤血球、白血球、血小板が極端に減少してしまう病気。日本での症例は4例しかない4000万人に一人の難病とされ、死亡は剣晃さんが2人目。白血病の一種。直接の死因でもある「肺出血」も、切れた血管が血液の異常で凝固しなくなったためだという。


記者3ヵ月目出会い

 思えば出会いも、薄暗くさびれた都内木造病院の一室だった。記者になってまだ3カ月目の95年5月。41度の高熱を押して新小結の夏場所を千秋楽まで勤めた夜、とうとう倒れた。当時怖い印象しかなく、なかなか病室をノック出来なかった。立ちすくむ記者のシルエットは擦りガラス越しに見えたらしい。10分ほどして赤い顔の剣晃が扉を開けた。
 「オレ、怖いんは土俵の上だけやと思うけど…」。
 横綱貴乃花にも張り手をかますこと度々。勝負後も「もう一丁張って欲しいのかと思って」にらみ返した一番もあった。「上位を倒すのは快感」「オレは角界ならず者、悪役よ」「これでまた不幸の手紙が増えるな」。番付一枚違えば虫けら、とまで言われる相撲界にあっても、絶対上にもこびなかった。飾らずいつも本音で話しかけて来る剣晃さん。その男気あふれる名調子を聞くため、勝っても負けても二重、三重の報道陣の人垣が出来た。

原因不明の発熱

 弱小部屋の悲哀で、高田川部屋はどの都市でも本場所の土俵から遠く離れた郊外にある。春場所大阪は、河内長野駅からまだ車で10分山奥の観心寺が宿舎。朝げいこを見ようと思えば、まだ外は暗い午前5時半起き。それでも「あしたは高田川部屋に取材行って来いや」と、先輩記者に言われるとうれしかった。「よくここまで来るよなあ。オレなんか取材したってしょうがないよ。寝てた方が体にいい」。朝稽古を終え、特製のキムチちゃんこをよそってくれる剣晃さんは細い目をさらに細くし、いつも笑っていた。
 強気な言動の陰で、病魔と戦っていた。ここ数年発熱回数が増え、毎日点滴を打っての場所勤め。少しづつやせて行く体に“不安と予感”があったのかもしれない。「貧乏してるだろ? きょうはオレのおごり」。96年の春場所直前、酒が全然飲めない自分を連れて行ってくれた北新地のクラブで、剣晃さんはブランデーをあおって少し考え込んでいた。
 「正直、怖いよ…。オレの熱発はどう調べても原因不明なんだ。でもこのまま死んだら、母ちゃんに申し訳ないからな」。二言目には、母智恵子さんのことばかり心配していた。
 2歳の時父を亡くし、女手一つで育てられた。大阪守口市の庭窪中学時代は、番長を張りながら、朝は新聞配達。守口高では定時制に通いながら昼間は道路工事の力仕事や飲食業、表札セールスなどもしながら家計を助けた。「この顔で頭はパンチパーマの金色に染めてたから、全然売れんかったわ。そやから仕事はどれも長続きせんかったなあ」。そんな時智恵子さんが勧めたのが同じ守口出身、高田川親方(52=元大関前の山)の元への角界入りだった。当時庭窪中学の教頭先生が、高田川親方の担任だったという縁も後押し。「不良の自分をみんなで支えてくれたからこそ、今の自分がある」と、よく感謝を口にしていた。

昨夏、無情の宣告

 だが入門直後から病気がち。そこでとんちの利く部屋の行事、木村和一郎がつけてくれたのが「剣晃」のシコ名だった。願いは「健康第一」。場所中羽織る浴衣も、無病息災の縁起を担いでひょうたんの図柄。稽古後は毎日、必ずセロリやアスパラなど9種の野菜を交ぜた苦い青汁をドンブリ一杯…。「母ちゃんの楽しみはオレの頑張りだけやろ」。その一心で十両へ、幕内へ。そして大関、横綱をも何度も倒し、小結まで駆け上がった。
 だが病魔は、予想外の速度で進行していた。幕内上位を務めた昨年始めから発熱や貧血がひどくなり、稽古場で倒れることもあった。昨年5月夏場所の勝ち越しを最後に6月から入院し、翌7月名古屋場所を休場。現役4位の初土俵からの連続出場も、825回でストップした。「残念ですが、息子さんは助かりません」。母知恵子さんが医師から無情の宣告を受けたのは、そんな暑い夏の日だった。
 一るの望みを託し、東京や千葉の大病院でも治療方法は見つからず。12月から大阪狭山市の近大付属病院に転院していた。一時退院出来るまでに回復した今年2月、剣晃さんは兄隆史さんとともに小学校や中学校、よく遊んだ公園など、思い出の場所を歩いたという。「本人も自分の死が近いことを分かっていたようです…」と知恵子さん。その後3泊で和歌山へ温泉旅行に出掛けたのが、最後の親孝行となった。

「母ちゃん眠りたい」

 3月に入り、急激に病状が悪化した。血圧の降下で危篤に陥ったのは7日。それは奇しくも、剣晃さんが一番楽しみにしていた地元大阪での春場所初日の前日だった。激痛が手に取るものすべてを投げ付けさせた。「あの子は夢の中でも土俵に上がっていたんでしょうか…」(知恵子さん)。そして絞り出すように言った。「母ちゃん、もう眠りたい…」。初日を迎えた8日朝、相撲のテレビ中継を見ることもなく意識がなくなった。そして10日、とうとう剣晃さんは旅立った。
 「剣晃、オレはまだ死んだとは思ってない!」。葬儀で親族を代表して挨拶に立った高田川親方は、大泣きしながら遺影に向かって叫んだ。弟弟子が泣きじゃくりながら、棺を霊柩車に乗せた。外は激しい大雨。そして涙も涸れ果てた知恵子さんが、火葬場へ向かう息子の車に、いつまでも両手を合わせていた。
 「太く、短く、いい人生だったんではないでしょうか…」。横綱貴乃花を倒した懸賞金や三賞賞金は、半分を智恵子さんに送金。残り半分は「これでうまいもん食えや」と、弟弟子にまいていた。最後となった昨年暮れの電話で、剣晃さんはゴホゴホせき込みながら話していた。「母ちゃんには迷惑かけっ放しで、何にもしてない。親孝行はこれからよ。花嫁も見せなアカンし、まだまだ死ねんよ」。
 どんなに、どれほど無念だったことだろう…。もっともっと生きて欲しかった…。そしてもう一度、土俵に帰って来て欲しかった…。弱きを助け、強きをくじく姿が、まぶたに焼き付いて離れない。素顔はテレビ画面の「悪役」とは180度の違い。思いやりでは、「横綱」だった。合掌―。



剣晃敏志(けんこう・さとし) 本名・星村敏志。
1967年(昭42)6月27日生まれ、大阪府守口市出身。守口高定時制を2年で中退し、高田川部屋に入門。84年11月場所初土俵。91年3月場所新十両。92年7月場所新入幕。95年5月場所で新小結に昇進した。翌7月場所では曙から金星を奪うなど、11勝4敗で殊勲賞受賞。96年1月場所では、優勝した大関貴ノ浪にただ一人黒星を付け、敢闘賞受賞。同5月場所では貴乃花から金星。金星2個の他に大関戦11勝。うち貴ノ浪は7勝とお得意さんだった。初土俵からの通算414勝411敗。幕内通算は在位28場所で181勝224敗。得意は左四つからの寄り。191センチ、全盛時は150キロ。独身。




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