[
目 次 ]      月刊・お好み書き 1996年12月1日号


ルポ『在日挑戦』の矢野宏氏が寄稿
国体改革これで一歩前進?
「朝鮮学校」門戸開かず

97年大阪「なみはや国体」で在日外国人の参加“条件付き“で拡大

  国体−正式名称は「国民体育大会」という。第1回大会が京都で開かれたのは敗戦の翌年、1946年のこと。以来、日本の戦後史とともに歩んできた国体は、来年、大阪で開かれる「なみはや国体」で52回を数える。これまでにも再三、改革論議が起きていたが、日本体育協会は、ようやく在日外国人の参加を条件付きで認めた。「一歩前進」と報じられた今回の決定だが、在日朝鮮人にとって“朗報”と言えるのだろうか。
(文、写真/矢野 宏=ジャーナリスト)


  朝鮮学校はボクシングでも
  強豪選手が多い。
  写真のインターハイには
  94年から参加が認められている。
  戦後51年の今、国体への参加は
  認められていない


朝鮮高級学校生の
インターハイ参加への道を
ルポした矢野氏の『在日挑戦』

約10年、在日韓国・朝鮮人の問題に
取り組んでいる矢野宏氏



重い腰上げた体協

『条件付きながら、在日外国人(社会人)の国体参加がようやく認められた』----------

 その一報を、私はスポーツ紙のY記者からの電話で知った。
 この日、11月12日。日本体育協会(略称・日本体協)の国体検討小委員会は、在日外国人の国体参加問題を話し合い、参加の条件を緩和することで一応の結論を出したという。
 といっても、「学校教育法」の第一条で定められた「正規の学校」(一条校)に通う在日外国人の高校生や大学生は、すでに国体への出場が認められている。今回の決定は、「彼らが社会人になると、参加資格を失うのはおかしい」という矛盾点を解消しただけだ。
 「その割には、えらい時間がかかったなぁ」
 Y君の説明を聞きながら、そんな感想をもらしたほど、日本体協の“腰”は重かった。
 そもそも(なんてチト大げさだが)ことの起こりは、昨年の夏。96年から国体開催地となる広島、大阪、神奈川の3府県が、「在日外国人にも国体参加の門戸を開いてほしい」という要望書を、文部省や日本体育協会に提出したのがきっかけだ。
  国体の参加資格は、原則として「日本国籍を有する者」に限られている。
 そのため、21万人の定住外国人が暮らしている大阪は、「国籍条項の撤廃は時代の趨勢(すうせい)でっせ」と訴え、「参加資格を“都道府県の住民”にしたらどないでっか」と提案した。
 要するに、「国体は地域の住民のための大会」と位置づける3府県に対して、“守旧派”の面々は、「国体の開会式には、天皇も出席されるのに、なぜ外国人が参加するのか」「国体は、あくまでも日本人のための大会だからね」などと主張。すでに外国籍の高校生や大学生に門戸を開いているにもかかわらず、だ。なんという度量の狭さ。結局、相譲らず、時間切れ。国籍条項をめぐる本格的な論議はまたもや先送りにされ、シャンシャンとなったのだ。

国籍条項という壁

 それにしても、国籍条項という壁は、頑強だ。この壁を前にして、どれほどの外国籍の若者たちが悔し涙を流してきたことか。
 あの王貞治・ダイエー監督も、その一人だった。たしか、57年ごろだったと思うが、当時、早稲田実業のエースだった王監督は甲子園の選抜大会で優勝投手になりながら、彼一人、国体に参加できなかったことがあった。
 その後、教育的配慮からも参加資格が見直され、特別措置として、81年から“一条校”に通う高校生について、88年からは中学生についても、たとえ外国籍でも出場が認められるようになった。

難産で大学まで拡大

 出場枠が大学生にまで広がったのは、90年のことだ。それも、一人の青年の悔し涙がきっかけだった。
 当時、金沢大学医学部六年生で漕艇部員だった在日朝鮮人三世の朴在鎬(パク・ジョホ)さんは、その前年の7月に行われた国体石川県予選を兼ねた県民体育大会の1000メートルシングルスカルに出場、優勝した。日本で生まれ育った朴さんだったが、日本国籍を有していないため、国体への出場資格がない。結局、下位の日本人選手2人が1、2位に繰り上がり、朴さんには後日、「国体への出場資格はない」とのただし書き付きで1位の賞状が郵送されて来た。
朴さんは石川県漕艇協会にかけ合ったが、埓(らち)があかず、いったんは涙を飲む。でも、どうしても諦められない、悔しい。そんな朴さんの気持ちを汲み取った金沢大漕艇部の部員たちが中心になって、日本体育協会に要望書を提出。さらには朴さん自身、文部省体育局にも出向いて国体出場を直訴した。
「在日韓国・朝鮮人は、日本の旧植民地政策による強制連行や土地を奪われるなどの結果、この地に住むことを余儀なくされた人たち、またはその子孫で、今では実質的に日本の地域社会の一員です。しかし、その権利は著しく制限されているのが実情です。……」
 この問題は、国会でも取り上げられ、当時の日本体育協会の会長が参考人として答弁するなど、各方面に論議を呼び起こした。
 朴さんの、国体出場はならなかったものの世論の“追い風”もあって、「日本の中・高校を卒業していること」を条件に、外国籍の大学生(留学生は含まず)も国体への道が開かれたのだ。
 と、同時に、この時、ある問題点が指摘されていた。「学生時代に、国体に参加できた選手が、卒業した時点で出場できなくなる」という点だ。

6年間知らんプリ

 当時の、国体委員会の委員長は、私見としながらもこう答えている。
 「将来は、一般についても検討していかないと公平でなくなる。国際化という社会の流れもあるし……」
 おいおい、そう言うてから何年たっとる思うてんねん、と半畳の一つも入れたくなる。ナント6年である。これじゃあ、昨年の夏に3府県から要望書が提出されるまで、知らん顔を決め込んでたんやないか、と勘繰られても仕方あるまい。

新たな選別の恐れ

 しかも、今回の決定の条件付きというのが、またまた曲者なのだ。
 「日本の学校(一条校)を卒業、在籍した者と書かれています」というY君に、思わず、叫んだほどだ。
 「ということは、朝鮮学校生やその卒業生たちは、またも閉め出しかいな」
 これでは、同じように日本で生まれ育った在日コリアンの中に、“新たな選別”をつくり出しただけではないか。

「一条校」でないから

 学校教育法 という法律が ある。制定は戦後間もない47年で、学校制度の基本をさだめたものだ。その第一条に、学校の定義がなされている。
〈学校とは、小学校、中学校、高等学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校及び幼稚園とする〉
 では、それ以外は、というと第八十三条にこう記してある。
〈第一条に掲げるもの以外のもので、学校教育に類する教育を行うものは、これを各種学校とする〉
 在日朝鮮人の子どもたち約2万人が通う朝鮮学校は全国に144校あるが、民族教育をしているという理由から、学校教育法の第一条で定める「一条校」ではなく、各種学校扱いである。といって、カリキュラムは日本の学校とほぼ同じ。授業は朝鮮語で行われるほか、朝鮮の歴史・地理の授業が余分にあるだけ。もちろん、日本語の授業もある。彼らは卒業後、母国に帰るのでなく、この社会の構成員になるのだから、だ。
 しかし、彼らを閉め出す偏見の壁はまだある。インターハイ(全国高校総体)にしても、94年から参加は認められたが、高体連への加盟はまだ認められていない。プロサッカーのJリーグでも、日本生まれの外国籍選手は1チーム一人だけ所属できる「在日枠」があるが、「日本の学校(一条校)を卒業していること」が条件だ。さらに、国立大学や少なからぬ公立大学の受験が拒否されている。
 彼らは、国籍という壁と、一条校という壁の前に、生きていく上で不当に“遠回り”を強いられているのだ。
 特に、高校生にとっては、インターハイに続いて、選抜大会への道も開かれ、3つある、全国大会のうち、あとは国体だけだった。
 国体の出場資格から国籍条項が廃止されれば、スポーツだけでなく、彼らを取り巻く環境、たとえば進学や就職、結婚などで受ける差別、偏見の解消へ向けてのドミノ倒しの一枚になったのに……。
 受話器を置いた時、私はそんなことを考えていた。

◆矢野 宏(やの ひろし)
 1959(昭和34)年生まれ。愛媛県出身。地元紙「日刊新愛媛」の記者を経て、1987(昭和62)年ジャーナリストの黒田清氏、大谷昭宏氏が設立した「黒田ジャーナル」に入社。以来、反戦・反差別を二本の柱に記者活動を行っている。黒田ジャーナルが毎月一回発行しているミニコミ紙『窓友(そうゆう)新聞』のデスクとして、取材・編集に携わっているほか、『週刊金曜日』『月刊宝石』にも執筆している。著書として、朝鮮学校に通う在日の高校生たちがインターハイへ初めて出場するまでの道のりを追ったルポルタージュ『在日挑戦』(木馬書館)、阪神大震災の被災者がどう生きたかを追ったドキュメント『震災と人間』(共書、三五館)などがある。また、京都府発行の人権小冊子『みんなの命輝くために』のパート、パートも執筆、好評を得ている。


◆『在日挑戦』は1200円(税込)。問い合わせ、注文は木馬書館まで。
 〒113 東京都文京区白山1−7−6白山高柳ビル 03−3813−3980




  [ 目 次 | 上へ↑ ]      月刊・お好み書き 1996年12月1日号